避難生活の長期化
支援の変化
ウクライナから日本へ避難されてきた方々の避難生活も1年を超えました。ウクライナの現状は未だ安心できる状況にないことに変わりなく、避難生活は長期化しています。当初、日本までの避難への準備に始まり、住む場所の確保、生活のための公的な手続き、その後、各々に応じたサポート(学校、就職、医療等々)へと支援内容も変化していきました。そして、現在は食材の買い出し補助、学校や医療機関の手続き、種々書類代行等々更に細かなサポートへと変化・継続しています。
日本での生活に慣れて、各々の生活リズムができてきているため、皆さんの時間と生活、プライバシーを大切に敬う体制での後方支援、互いを信頼しいつでも安心して連絡していただけるよう心がけています。
子供たち
日本とウクライナの学校生活の違いに適応できる手助けとなるよう各学校の校長先生と密に連絡を取り合い、子供さんと保護者さんに寄り添う支援を続けています。当初は宿題やお手紙などの内容について頻繁な対応をしていました。その後、学校や教育委員会の方々が学習支援員さんの増員など環境を整えてくださり、宿題も学校で済ませられるようになりました。今は学校行事前の内容説明をしたり保護者さんと学校の連絡や伝言が主になっています。
そんな中、昨年に引き続き、今年も胸が痛くなる連絡を受けました。
日本の学校には「平和学習」という授業が年に数回あります。戦争経験のない子供達への平和教育は未来のためにも大切だと思います。対して、ウクライナから避難してきた生徒さん達にとって、平和学習で目にする映像や写真、絵本は彼らが実際に体験してきた戦争を思い出させてしまう現実。授業途中で気分が悪くなったり、ウクライナに離れて暮らしている家族を思い出して心配が恐怖となり涙が止まらなくなったりしてしまうことがあるのです。校長先生・担任の先生と保護者さん・本人達の間に入り相談して、別室で学習する選択肢を設けるようにしました。
大人たち
避難生活を安定して継続するために、ほとんどの方々が周囲のご協力により就職しています。日本語という言葉の壁のため、仕事の選択肢はなかったと言っても過言ではありません。その壁は未だに高く、元々の職種とは全く異なる職場で働いています。戦争前までは、保育士だった方、養蜂業を営んでいた方、IT系の仕事をしていた方もいらっしゃいます。「避難して安全に暮らせているのだから選んでいる場合ではない、違う経験を日本でさせてもらって感謝しています」ということを口々に言われます。
各職場の上司の方と時々お話をする機会があります。学校生活に違いがあるように、ウクライナと日本の働き方にも相違があります。その違いから何か問題はないかと危惧していましたが、職場の方々が異文化に理解があり、言葉の壁があっても職場での人間関係はうまくいっている様子です。
本音
私のサポートは、あくまで個人的なもので自らの意思で行っています。ウクライナ人3家族11名。それぞれ、先述したように仕事をしたり、学校へ通ったり、各々の場所で生活されています。
お互いの情報交換をしたり、本音や思いを吐露する場があった方が良いのではと必要性を勝手に感じて時折交流の場を設けています。皆さんが顔を合わせて、ウクライナ語で話をしている内容は私には理解できません。ただ、会話は途切れることなく続くので「積もる話、聞いて欲しい話があるんだろうな」と勝手に解釈しています。大人同士、子供同士、わいわいと時間を過ごします。
先日、学校から「昼食の途中でウクライナに離れて暮らす家族の名前を連呼しながら泣き出した」と連絡を受け、保護者さんにお伝えすることがありました。また別の日は、スマホでウクライナの家族と話した後、目を真っ赤にしている姿を見かけ「Так Так.」と背中をさすり手を握って静かに時間を過ごすことがありました。普段冷静にしていても、家族の身を案じたり、寂しく思ったり、感情が溢れてしまうことがある。生活が安定し衣食住の心配はなくなっていても、戦争を現実として経験していない私には計り知れない心情と、言葉に表せない本音が子供達にも大人達にもあることを忘れないよう傍で寄り添い続けたいと思うばかりです。

ウクライナの夏
平和な日常のウクライナだったら
ドニプル川の辺りで
日光浴、ピクニック、水浴びをして
大切な家族たちと過ごしていたかもしれません。

